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大友宗麟(1530-1587)とは・・・(臼杵市教育委員会の資料より借用しました) 大友宗麟は今から485年前の1530年に、豊後府内(現大分市)の大友館で誕生しました。 幼名を塩法師丸とし、10歳の元服の時に、当時の室町幕府第12代将軍、「足利義晴」の義の字をもらい、義鎮と名乗るようになります。 1550年、義鎮(宗麟)20歳のときに、「大友二階崩れの変」と呼ばれる家督相続をめぐる内紛を治め、若くして大友家第21代の当主となりました。 翌年、当時山口で布教をしていたフランシスコ・ザビエルを豊後府内に招きます。宗麟とザビエルの歴史的な会見により、領内でのキリスト教の布教が許可されます。 ザビエルが日本を離れるに際し、宗麟はポルトガル王へ親書と使者を遣わします。これにより多くのポルトガル人宣教師が豊後府内を訪れるようになり、 この事を契機にいわゆる南蛮貿易が本格的に行われるようになりました。1550年代は南蛮船の寄港に加え、宗麟自らも積極的に中国や東南アジアと直接交易を行い、 豊後を経済的に大きく成長させました。また、卓越した政治力により時の権力者とも良好な関係を結び、北部九州6ヵ国の守護職となるなど、 大友氏400年の歴史の中でも最も輝いた時代を創りあげます。 キリシタン大名として名を馳せた宗麟ですが、実はキリスト教の布教を保護しながらも、自らは禅宗に帰依し、剃髪して「宗麟」と名乗り、 十数年は仏教徒として修業しています。 1578年、宗麟48歳にしてようやくキリスト教の洗礼を受け、名実ともにキリスト教徒になるのです。 洗礼名は「フランシスコ」といい、若かりし頃大きな感銘を受けたフランシスコ・ザビエルにちなんで自ら選んだと言われています。 この年に宗麟は日向に遠征しますが、「日向高城 耳川の合戦」により薩摩の島津氏に敗れ、ここから大友氏の権勢に翳りがみえるようになるのです。 9年後の1586年、宗麟56歳の時に島津氏が豊後に侵攻し、ここ臼杵でも領民達を城にかくまいながら懸命の応戦をしています。この時、日本で初めて「国崩」と呼ばれる大砲が使用されたともいわれています。果敢に戦った大友軍でしたが、島津軍の前にもろくも敗れ去ります。 そしてその翌年の5月、宗麟は波乱に満ちた57年の人生に幕を下ろします。折しも秀吉によるバテレン追放令が出される直前の出来事でした。 |