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Relics

サーラ・デ・うすき

サーラ・デ・うすき01

「サーラ」は、ポルトガル語で「居間」のことです。

この建物は臼杵市の観光案内所です。グレゴリオ大学に残る臼杵修練院の想像画を参考に建築されました。

フロイスの記した「日本史」や「耶蘇会士日本通信」等によれば、臼杵城下町にはイエズス会の教会や臼杵修練院、大友宗麟が建てた教会などがあったといいます。


臼杵城石垣記号

石垣記号01石垣記号02

臼杵城は1556年頃大友宗麟(当時義統)によって建てられ、1869年に廃城されました。

空堀跡の石垣や、車道上がり口の石壁などいくつかの石壁に不思議な記号が残っています。

1961年のある資料によれば△・〇・H・十・大・Lなど合計88個が発見されています。

これらが何の目的で刻まれたかは謎ですが、キリスト教関係研究者によれば、△はサンタ、または父と子と聖霊を示す、〇はマリアまたは不変を、 HはIHSの略でキリストを、十は十字架を、大はデウスを、LはLAUSの略で栄光を表すといいます。


掻懐(かきだき)キリシタン墓

掻懐01掻懐02

臼杵市掻懐の台地に16~17世紀頃のキリシタン墓があります。

かまぼこ型のものは長さ131cm、幅64cm、高さ48cmで、全面に半月型の周辺に沿って弧線を、中央にクルスを刻んでいます。

長方体のものは長さ117cm、幅30cm、高さ33cmで、正面下部に櫛型の出っ張りがあって、この上部にクルスが刻まれています。

周囲の墓石の中には他にもキリシタンの墓石だと思われるものがいくつかあります。

掻懐には石切り場があり臼杵城の城壁の石も皆ここから切り出されていました。庄屋を初め村人全員がキリシタンだったと言われています。


寺小路の摩崖クルス

寺小路01寺小路02

フロイスの記録によれば、臼杵市野津町には大友宗麟の時代、多くの敬虔なクリスチャンがいました。

この摩崖クルスは1933年に発見されたときクルスが彫られた面は地面に伏せられていました。だからこそ、 厳しい弾圧下にあっても破壊されることなく残ったのかもしれません。

平らな正面に直径63cmの円形の浅い窪みがあり、その下部に雲形の台、上部に高さ53cm、横38cmと13cmの干十字が浮彫されています。


一ツ木の隠れ地下礼拝堂

地下礼拝堂01地下礼拝堂02地下礼拝堂03

この礼拝堂は横穴式古墳を再利用したものと考えられています。

はしごを伝って降りると、洞内は奥行5m、幅4m、天上までの高さ1.8mほどで、狭いながらも20人ほどが集まれる広さがあります。

当時はこの地下礼拝堂を隠すために、地上にお堂が立てられていたと云います。


下藤のキリシタン墓地

下藤墓地01下藤墓地02下藤墓地03

平成30年度に国史跡に指定された、西日本最大とされるキリシタン墓地が臼杵市野津町の下藤にあります。

約400㎡の墓地に、東西方向に向けた66基の石組遺構が南北方向に5~6列で整然と並んでおり、更に建物の礎石とみられる遺構、円形の広場状の石敷遺構、 道路状の石敷遺構が見つかっています。

1956年に常珎(じょうちん)という名を刻んだかまぼこ型墓碑、1999年にINRI碑が発見されました。この墓地の対岸に寺小路の摩崖クルスがあります。

下藤の常珎(じょうちん)の墓碑

常珎01常珎02

1956年に発見されたかまぼこ型の墓碑。 下藤のキリシタン墓地は現在調査が終わり、埋め戻されていますが、この墓碑のみ地上に設置され見ることができます。

この墓碑は豊後の最初の殉教者のひとりであるジョウチンの墓とされるもので、長さ59cm、幅53cm、高さ47cmほどです。

正面上部の直径23cmの円の中にギリシャ十字架が見られ、その下にうっすらと「常珎」という文字をみることができます。

下藤で発見されたINRI碑

INRI081

1999年に、幅30cm、高さ30cmほどの石碑の一部が下藤のキリシタン墓地で発見されました。

正面に「INRI」、裏面に円形枠の中に十字架、左側面に金槌とくぎ抜き、右側面にはしごが彫られています。これらはイエス・キリストが十字架にかけられたときの道具をしめしています。

当時これらの道具は十字架とともに描かれることが多く、この石碑も十字架の一部とみなされています。


牧原の雲形十字架片

牧原01牧原03

野津町の国道10号線沿いの牧原バス停から、坂道を登っていくと、民家のすぐ裏手の竹藪が茂っている中に「雲形十字架片」があります。

「大分県きりしたん文化の遺跡と遺物(平山良英著)」によれば、これは高さ2mを超す雄大な十字架の一部で、雲形の受けがあり、その上に十字架があったのではないかといいます。

この遺物の近くには不思議な外見のお地蔵様やキリシタンの墓碑とも思われる興味深い遺物がまとめて置かれています。


波津久のクルスバ

波津久01波津久02

野津町烏嶽にこのクルスバ(十字架が立っていた野外礼拝場の跡)があります。中央部分に波津久氏の供養塔が建っています。

フロイスによれば、野津には大勢のキリシタンがおり、14~5箇所に十字架が建てられ、人々はそれらの場所を巡礼して廻り、野外ミサを奉げていたといいます。

今は杉の林になっていますが、この付近は今でも「かみのはる」と呼ばれています。


了仁寺

了仁寺02了仁寺03

波津久クルスバの近く、黍野川沿いにある立派なお寺。浄土真宗本願寺派。

キリシタンと関連が深いといわれています。


鍋田のキリシタン墓

鍋田キリシタン墓01鍋田キリシタン墓02

野津町の国道10号線の鍋田のバス停から坂道を上がっていくと間もなく、右手に墓地があります。

家形のキリシタン墓が2基ありますが、家はイエスを表すと言われています。


鍋田城跡

鍋田城跡02鍋田城跡03

鍋田キリシタン墓の向かいにこんもりとした小さな山があります。今は明神社となっていますが、ここは鍋田城が建っていたところです。

1586年(天正14年)薩摩軍が豊後を攻めたとき、下藤地区のキリシタンのリーダーだったリアンが約3000人のキリシタンを率いて立てこもったと言われています。


西寒田、御霊園のクルスバ

御霊園01御霊園02御霊園03

犬飼町と臼杵市の市境にある御霊園地区にクルスバの遺跡があります。

2011年に石組みの遺構や石造物が発見されました。


三重のクルスバ・崖の十字架

三重クルス01三重クルス02三重クルス03

豊後大野市三重町の国道326号線沿いの「道の駅みえ」のすぐ近くにあります。

大野川に面した斜面の道なき道をたどって下に降りていくと、崖の岩肌に二つのクルスが刻まれている場所にたどり着きます。

クルスは縦40cm、横20cm、深さ3cmのものと、縦20cm、横16cm、深さ4cmのふたつです。

この場所は崖の中腹にあり、木々に覆われていて道路からも下方からも見えないので、隠れキリシタンの礼拝所だったと推測されています


三重のキリシタン墓群

三重墓群01三重墓群02三重墓群03

豊後大野市下赤嶺の墓地の一角に88基の墓石をまとめて設置しています。

これらの墓石は周辺の墓地内に散在していたものを散逸を防ぐために一か所に移転したものです。

1569年(永禄12年)に井田と三重で170人が洗礼を受けた記録があり、十字架のある墓石は禁教令が発布されるまえに造られ、   無印の墓石はそれ以降のものと推定されています。


重岡のるいさの墓

るいさ01るいさ02るいさ03

佐伯市宇目町重岡、見晴らしの良い小高い丘の上にあります。

この墓石は長さ180cm、幅86cm、高さ27cmで、上面に直径29cmの円の中に十字架が彫られています。全面中央に「るいさ」という名前が、その右側に「元和五年」   左側に「正月廿二日」と没年が刻まれています。墓石の大きさ、はっきりと刻まれた十字架、洗礼名、没年月日が読み取れるキリシタン墓は他にないため、   その史跡価値が高く県指定の史跡となっています。

大正時代の初め、杉を植樹していた渡辺家当主が地中に埋まっていたこの墓を発見したが、祟りを恐れて埋め戻したのを、1956年渡辺由忠氏が掘り起こしたそうです。

研究者によれば、るいさは岡藩から宇目に嫁いできて30前後で亡くなった女性ではないかと推測されています。


竹田 洞窟の礼拝堂

竹田礼拝堂02

竹田市の岡城の城下町、殿町にキリシタンの礼拝堂跡があります。かつてこの一帯には武家屋敷が軒を連ね、今でも城下町の風情が感じられます。

洞窟礼拝堂跡は武家屋敷通りから奥に入った場所にあります。 内部は幅3m、奥行き3m、高さ3.5mで奥の正面に祭壇として使用していたと考えられる掘り込みがあります。

中川氏以前の領主志賀親次(ちかよし)はキリシタンでキリスト教を保護していました。

このような洞窟の礼拝堂は全国でも大変珍しいということです。


津久見 大友宗麟公の墓

宗麟墓地01宗麟墓地02宗麟墓地03

津久見市中田の宗麟公園に大友宗麟の墓が二つあります。当初キリスト教式の墓に葬られましたが、バテレン追放令が出されたあと、嫡子義統は 仏式に改葬しました。その墓も荒廃し、後に旧家臣の末裔臼杵城豊が改装しました。

キリスト教式の墓碑は昭和52年、上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され、磯崎新氏の設計により造られました。

宗麟と津久見との関りは40代後半日向侵攻以前からであり、天正11年天徳寺に隠居し、1587年津久見で召天されました。


津久見 大友宗麟公の像

宗麟像01宗麟像02宗麟像03

大友宗麟(1530-1587)は戦国時代、九州6ヵ国を支配し、またキリスト教を保護したキリシタン大名として有名です。

20歳のとき「二階崩れの変」により父親義鑑が死亡、大友義鎮(後の宗麟)が家督を継ぎました。

宗麟は海外貿易の振興をはかり、外国の学問、宗教、文化の理解に努め国際人としての感覚を備えていました。

1562年に出家し「宗麟」と名乗るものの真理を見出すことが出来ず、1578年にキリシタンとなり「ドン・フランシスコ」と名乗りました。